浮かび上がる、沈み込む。

人生的にも感情的にも浮き沈みが激しいです。どちらかというと、溺れてると言った方が正しい。

「あなたが死んだら悲しい」と言われても意味がわからない私の話。

「『死にたい』と言われたら、こういう風に対応しましょう」というコラムや記事をよく見かける。各都道府県の保健福祉部や厚生労働省のホームページでも掲載されているように。

 しかし、人間は「個」だから、残念ながら全員が全員その通りに対応すれば良いというものではないと思う。100人いたら、100通りの対応の仕方が実はあるはずで。

 とりあえず、
「死んじゃダメだよ!」
「気の持ちようだよ」
「君より大変な人なんてたくさん居るよ」
「考えすぎだよー元気出してこ!」
「生きていれば良いことがあるよ!」
と、いうような、本人のつらい気持ちを否定する、他人と比較する、無責任な励まし・慰めは万人共通でタブーだけど、各所で推奨されている「あなたが死んだら私は悲しいよ(だから死なないで)」という言葉も、私にとっては効果がなかった。

 私は性格があまりよろしくないとはいえ、サイコパスのように冷酷無慈悲な人間というわけではないので、自分の身近な人や好きなアーティストが死んだら流石に悲しい気持ちになるし、なんなら、知り合いが身内を亡くして悲しんでいればそれに影響されて悲しくなるくらいには共感力もある。
 けれど、自分が死んだときに他人が悲しむかもしれないとは思わない。思えない。なんだか腑に落ちない。全くピンと来ない。
「死にたい」と零してしまったとき、「あなたが死んだら私は悲しい」と言われたことはあったけれど、正直よく分からなかった。「この人が悲しむから死ぬのはやめよう」なんてとてもじゃないけれど思えない。

「そうやって言えば揺らぐくらいの気持ちだと思われてるのかな」
「『あなたが死んだら悲しい、って言っとけば気が済むんでしょ?どうせ構って欲しいだけでしょ?』って思われてるんじゃないかな」
「え、いいですいいです。そういう嘘とかいらないです」
「『自分が悲しい思いをしたくないからお前はつらいのを我慢しろ』ってこと?」
 私は内心そんなことを思いながら、神妙な顔で「うん……ありがとう、こんなこと言ってごめんね」と言っていた。言いながら、うんざりしていた。

 性格がひねくれている上にねじけているのは重々承知しているけれど、仕方ない。だって本当に意味が分からないのだから。

 以前、件の男友達に言われたことがある。
「(ひよこねこ)ちゃんは、どうして自分のことを特別視しているの?」と。
 特別視なんてしていないと言い返したら、
「してるよ。自分は周りと違って価値がないって思ってるじゃん」と言われて仰天してしまった。
 そんなこと、思っているつもりは微塵もなかったし、だからそう言われたときには「何言ってんのこいつ?」と思って取り合わなかった。けれど今思えば、確かに私は自分を特別視しているのかもしれない。

「特別視」という言葉が、まるで選民意識を持っているのと同義に聞こえて、「『自分は周りよりも優れている』と思っている人」と評されたように感じてしまうけれど、「特別」という言葉は必ずしもポジティブな意味やアグレッシブな意味で使われる訳ではないのだ。
「特別に」価値がない、劣っている、と思い込んでいる場合にだって使われるのである。

「(ひよこねこ)ちゃん、A君(※共通の知人)が死んだら悲しいでしょ?それとおんなじ。A君だって、(ひよこねこ)ちゃんが死んだら悲しいよ」
 最近また彼に言われたが、やはり私にはわからない。A君が他の誰かの死を悼む気持ちはわかる。共感できる。でも、A君が私の死を悼むのは……そんなことありえないと思ってしまう。その気持ちはわからない。いや、わからない、というのは少し違う気がする。わかりたくない、という方が正解かもしれない。

 私はきっと、基本的に他人を信用していない。だから私が死んで悲しい、という言葉を信じられない。信じていないし信じるつもりもない。信じるつもりがないから、多分理解するつもりもない。理解したくない。だから、「わからない」のだろう。
 こんな風に「わからない」原因に気づいても、その根本的問題である人間不信を解決・改善する方法は、相変わらずわからない。

 「わからない」というのは、苦しい。

 自分に対して他人が発する「あなたが死んだら悲しい」という気持ちをわかったとき、私はきっとそれ以外の色々なことをわかるようになっている気がする。

 その日、は当分来ないだろうけど。