浮かび上がる、沈み込む。

人生的にも感情的にも浮き沈みが激しいです。どちらかというと、溺れてると言った方が正しい。

「死にたい」気持ちを抑圧すると死に近づくという話。

割と幼い頃から消滅願望があり、思春期から希死念慮を持ち続けてきたが、三十路を目前にして抑鬱症状が激しく表出するようになって気づいたことがある。

「消えたい」とか「死にたい」とかそういう感情は、表現しないとどんどん自分の中に溜まってきて、最終的には濃度も粘度も高まった感情に押し潰されて取り殺されるということ。

私は小学生の頃からなんとなく詩を書き始めて、これまでずっと続けてきたのだけど、改めて読み返してみると、内容は大体「消えたい」「死にたい」「つらい」「怖い」「不安だ」というようなことを言葉を変え、テーマを変え、表現を変えて書いているだけだった。あとは自分の中の葛藤や矛盾、自己あるいは他者に対する怒り、自己否定や罪悪感、破壊衝動、絶望など。

昔から、周囲に相談できる人がいなかった。自分の内面について吐き出せる人間が誰一人としていなかった。親にも言えず、友人にも先生にも言えず、けれどそういう感情は何もしないと瞬く間に肥大して、眠れなくなったり、息苦しくなったりする。涙が出てくる。
そんなとき、自分の胸の内を書き殴り、詩として表現すると、少しだけ心が軽くなった気がした。

そうやって小学生から思春期をなんとかやり過ごしてきたけれど、四半世紀を超えたあたりで色々と抑えが効かなくなり、詩を書くことで逃がして来た感情の膨張をもはや止めることが出来なくなってしまった。結果、メンタルがヘラった訳なんですけれども。

メンタルがヘラって、自分だけの力でどうにも出来なくなったとき、自分の中に留めておくことが出来なくなった感情が他人の前で表出した。ぽろっ、と。「死にたい」と口に出してしまった。というか、口に出していないとなんだかやっていられなかったのだ。のどの辺りで鉛玉がつっかえているように息苦しい感じがして、「死にたい」と言うとその蓋がしばらくスッと下に落ちてくれたから。

けれど返ってきた言葉は、

「死んじゃダメだよ!」
「死にたい、なんて言わないで」
「生きてたら良いことあるよ」
「死ぬ気になったらなんでもできるでしょ」
「なんで死にたいとか思うのか理解できない」
「死にたいって言っている内は大丈夫だ、死ぬ奴は死にたいとか言わずに死ぬ」
「死にたいだなんて身勝手だ」
「考えすぎだよ、もっとシンプルに行こうよ」
「◯◯(私)が死んだら悲しむ人がいるよ」

絶望した。大いに絶望した。
「ああ、この人たちには言ってもわかってもらえないんだな」
「というかこの人たちにこんなことを打ち明けてしまった自分が馬鹿だったわ」
「もう絶対この人たちにこの手合いのことは言うまい」 「無駄だ。他人に気持ちを吐露するなんて無駄だ」
「もういいです。すみませんでした」
「もう二度と貴方達にはこんなこと話しませんので、私の内面に踏み入って来ないでください」
そう思った。

元々人間不信を根底に抱えた私だったけれど、もうね、不信どころか人間嫌いに拍車がかかりましたね。
言われた言葉の何がまずかったのか、恐らくわかってくれるのはうつ病罹患者とか双極性障害罹患者とか、希死念慮が症状として挙げられる気分障害を抱えた方だけだと思う。
だから、過去にも現在にもそんな経験のない、なおかつゲートキーパー的知識もない、安定した愛着を獲得している人に対して「死にたい」とこぼしてしまった私が本当に愚かなんだけれど、なんだけれども、絶望して脱力した。

その後、アパートの部屋にひとりでいて、強烈な不安に襲われたり希死念慮に苛まれたりして涙が止まらなくなったとき、詩を書くことなどでは自分を保つことが出来ず、どうしたらいいのかわからなくなってどうしようも出来なくて、「お願い、誰か助けて」と思っても、誰にも言えなくなった。誰にも連絡出来なくなった。
この名前のつけようがない混沌とした気持ちを、誰になら打ち明けて吐き出してもいいのかわからなかった。また傷つくことになるんじゃないか。相手にとって迷惑になるんじゃないか。迷惑がられるんじゃないか。構ってちゃんかよウザい、と思われるんじゃないか。そう考えて、LINEの画面に並んだ「友だち」リストのアカウントアイコンを眺めながら、誰にもメッセージを送れないまま泣いていた。他人に見られたらドン引きされるくらいのレベルで泣いていた。一言で表すならば、嗚咽。「友だち」リストを眺めているだけでも辛かった。誰かに助けてほしい気持ち……ある種の依存欲求と、誰とも関わりたくない、関われないと思う回避欲求の狭間で、不安定さは極まっていった。

その後、私が取った行動は以下の通り。
1、LINEの友だちリストのほとんどを消去した。
2、電話帳の連絡先をほとんど消去した。
3、バーに行くのが好きだったけれど行かなくなった。
4、仕事でもプライベートでも、積極的に他人と関わらないようにした。

結果どうなったかというと、
1、物事に対する興味がどんどん失われた。
2、何をしても楽しくない。楽しめない。どれだけ笑っても、作り笑いをしているような気がする。
3、極度のテレビっ子だったのに、テレビを眺めるのすらしんどくなってきた。
4、詩すら書けなくなった。言葉が浮かんで来ない。自分の状態を言い表せる言葉が見つからない。
5、甘いとか苦いとか酸っぱいとか、食べもの自体の味はわかるし不味いわけではないけれど、美味しいと感じられなくなった。
6、「死にたい」というより「死のう」と思うようになってきた。どれだけ痛くても苦しくてもいいから確実に死ぬ方法ってないのかな、という考えが頭を過ぎるようになった。

「死にたい」気持ちを表現できなくなってから、自分の感情や感覚が少しずつ死んでいった。死んでいっているのがわかった。本能的に。

前回のブログに書いた通り、不眠症の症状をほぼコンプリートしていた頃と比べるとからだ自体の調子は多少マシではあるし、仕事にも行けている(というか同じ部署に最近中途採用で入社した人がいて、その人に仕事を教えなければいけない、なおかつ不眠症状と抑鬱症状MAXの時に休みすぎて有給休暇を使い切ってしまった為、単純に休めない)し、四六時中「死にたい」と思うわけではなくなったけれど、5月に入ったあたりから、ふと突然「死のう」と思うようになった。時々浮かぶ「死のう」という意思について、あれ?ちょっとヤバくないか?とぼんやり思う自分もいたけれど、一方では「『死のうと思ってるんだ』なんて他人に言ったら止められるかもしれない、そんなの面倒だから絶対に言わないようにしよう」とも思っていた。

そして5月6日。日曜日は本来公休日だけど、心身ともに酷い状態で休んでしまった平日と交換した為、出勤日となっていた。
その日も状態は決して良くなかった。それでも無理矢理出勤したら自分しか居らず、ひとりだから歯止めが効かなくなってしまったのか、仕事をしている間に涙が出てきた。からだが震えて涙が止まらない。なぜかはわからない。わからないけれども、次々出てくる涙にどうしようと焦り始めたその瞬間、「あ、死のう」と思い立った。
「今、すぐ、ここで、死のう」と思い、私はなにか首を括れる紐的なものを探した。そうしてしばらく社内をウロウロしたけれど、ちょうどいい感じの紐が見つからず、見つからなかったことにより少しだけ冷静になり、その後はなんとか仕事をこなした。

今こうやって書いてみると自分でも「ちょっと異常だな」と思うのだけれど、そのときには異常だとか正常だとかそんな考えは全く無かった。そして、自分の異常性に思考が及んでいなかったことはわかるし覚えているけれど、紐的なものを探している最中の自分の気持ちや考えていたことは思い出せない。
「死にたい」気持ちを表現せずに抑圧すると、希死念慮から自殺願望あるいは自殺企図に移行するということを、私は身を持って理解したのだった。

だから、「死ぬ奴は死にたいとか言わずに死ぬ」「死にたいと言っている内は大丈夫」というのは半分真実で半分誤りだと思う。
「死にたい」と表現できれば、もしかすると身近にいる誰かがその人を病院に連れていってくれるかもしれない。病院に行ってみたら、とアドバイスしてくれる人がいるかもしれない。そうでなくても、同じような気持ちを抱えている人と何かの拍子に偶然出会って共感し合うことができて、少しでも慰めになるかもしれない。また、それらのいずれもかなわなくても、「死にたい」気持ちを表現できるだけで、髪の毛一本分に満たないほどわずかだとしても楽にはなれる。
けれど「死にたい」と言える人が周りにいない場合、「死にたい」気持ちを表現することを禁止された場合、あるいは「死にたい」気持ちを表現しないことを選んだ場合、病院に行くきっかけも失われ、共感できる誰かに出会えることもなく、少しも楽になれないまま、人は死を選ぶ。一般人の想像を絶する程の、冷たい孤独の中で。

「死にたい」を表現しない人間から死んでいく。そして、「死にたい」と表現できない人間、表現できなくなった人間の順に死んでいく。
たまに、昨日まで普通に楽しそうに笑っていた友達が死んだ、とかあるじゃないですか。あれはつまり、その人の中に「死にたい」気持ちはあったけれど周りに表現してなかった、故に誰も気づかなかっただけなんじゃないかと思うんですよ。表現しなければしないほど速く死に近づいてしまうから、他人が察する暇もなく死んでしまう。
あと、「死にたい」って言ってた人が、最近言わなくなったなー元気になったのかなー良かったなーと呑気に思っていたら、ある日突然亡くなった、とかさ。あれも多分、表現しても無駄だと学習した結果言わなくなったか、死ぬことを決めたから、それを阻止されない為に言わなくなったのだと思う。
ちなみに、昨日まで「死にたい」って言ってた人が今日死んだ、なんてことも普通にありえますからね。

だから「死ぬ奴は死にたいなんて言わずに〜」「死にたいって言ってる内は〜」なんて、言うもんじゃない。なんなら私はこれを言われたときに苛々して「いつか絶対死んでやるからな」と思った。この言葉は「死にたい」気持ちを抱える人間に「死にたい」気持ちを表現できなくさせる悪魔の呪文みたいなものだと思う。

まずね、なんで私がこんなことを阿呆みたいに長々書いたかと言うと、もう本当にしんどくなってしまったんですよ。「死にたい」と言えないことが。
これまた前回のブログに書いたけれど、わたしの中には「生きるのも死ぬのも許されない」感覚があって、「死にたい」と「死ぬのも許されない」の間に挟まれているときも結構な地獄だったんですが、いやはやそれ以上の地獄がね、あったんですね。「死のう」と「死ぬのも許されない」の狭間。究極の矛盾ですよこれ。
で、「自傷も許されない」という感覚があるのでリストカットとかはしたことないんですが、ちょっとなんか色々耐えられなくなって、カッとなってボールペンを手の甲に刺しちゃったんですよ。10回いかないくらいかな、ブスブスブスっと。いやでもボールペンなんて全然刺さらないだろって頭の何処かで冷静に思っている自分も居て、ボールペンの威力を侮っていたんですが、ちょっと勢いつけたらペン先くらいは普通に刺さったよね。血が滲むくらいで終わったけど。左手の甲になんか湿疹みたいに痕が残ってみっともないな、と思ったのでもうやりませんけど。
結論、勢いよく振り下ろすと、いくらボールペンでも流石に刺さります。

だから。
「生きるのも死ぬのも自傷することも許されない」感覚と「死のう」って気持ちの板挟みで本当にしんどいから、せめて「死のう」を「死にたい」に戻したいんですよ。それだけでだいぶ違うということに気づいたから。陣痛と激しい生理痛くらい違うから。

死ぬことは許さなくても、せめて「死にたい」と表現することくらいは許してください。